亜樹の萩尾望都作品感想ブログ

*盛大にネタバレしております。記事を探すにはトップのカテゴリー一覧からどうぞ 

(46)「秋の旅」~豊潤に薫る読後感/「雪の子」

2019年が明けました。
今年は萩尾先生のデビュー50周年という記念すべき年ですね!


~~~>>><<<~~~


萩尾先生、50周年おめでとうございます!
沢山の素晴らしい作品を生み出してくださってありがとうございます。
同じ時代に生きて新作を読むことができて本当に幸せです。
どうぞこれからもお身体を大切に末長く創作を続けてくださいますように!


~~~>>><<<~~~


…と、片隅からお祝いを申し上げます。
さてさて、1969-73年作品の感想シリーズ、今回は「秋の旅」。
別冊少女コミック』1971年10月号に掲載された、文学の薫り漂う24ページの短編です。


ラストまで詳しく書いていますのでネタバレNGの方はご遠慮くださいませ。記事の最後に作品が収録されている本をご紹介しています。

 

f:id:mimosaflower:20190101155823j:plain

(『萩尾望都作品集4 セーラ・ヒルの聖夜』1995年 小学館より。下も同)


物語は主人公ヨハンのモノローグから始まります。
初期作品はモノローグで始まるものが多いのですが、この「秋の旅」は特に印象的です。


「……その家は小さな池の ほとりに建っていた
ぼくは はっきり おぼえている

母は少し神経質で よく こごとを言った
手のよごれや 食事の作法や

ぼくや弟たちの姿が見えないと
母は心配して いくども呼んだ
ひどくとおる高い声だった

父は大きな人で よく母と夕暮れに
よりそって 池のほとりを歩いていた

――ぼくは いくつだったろう?
六つか もっと小さかった」


1ページ目はこのモノローグとともにヨハンの断片的な記憶の風景が1コマずつ現れ、最後にヨハンがアップになって汽車に乗っているとわかる。
これだけでもう物語の世界に引き込まれてしまいます。


そしてこのページはすべて横長のコマ。
萩尾先生は横長のコマを積み重ねる手法をよく使われていて、その効果として読者の目線が左右に広がる、上から順に読んでいくので読者がリズムをとりやすく時間の経過を意識する、などを挙げられています。
1ページ目で引き込まれてしまうのは、この横長のコマの積み重ね効果もあるのでしょう。


さて、田舎町の小さな駅に降り立ったヨハンが訪ねようとしているのは小説家モリッツ・クラインの家。
ヨハンはクラインの小説のファンで敬愛する作家に一目会いたいとやってきたのですが、実は他にも理由がありました。


クラインはヨハンと2人の弟の父なのです。
ヨハンが7歳の時に家族を捨て、それきり会っていません。
今は再婚して妻の連れ子のルイーゼと3人で暮らしています。


ヨハンが訪ねた時、クラインはちょうど庭でバラの世話をしていました。
突然の対面に緊張して言葉が出ないヨハン。
クラインは優しく接してくれますが、ヨハンの表情がふと翳ります。
きっと彼は、クラインに会えばすぐに息子だとわかってもらえるのではないかと淡い期待を抱いていたのでしょう。


けれどクラインはヨハンをルイーゼのボーイフレンドと勘違いしたまま乗馬に出かけ、ヨハンは同い年のルイーゼと話すうちに自分がクラインの息子であると知られてしまいます。
そして2人の会話から、クラインに対するヨハンの気持ちが少しずつ読者にわかってくるのです。


-・-・-・-・-・-


クラインは家を出た翌年にルイーゼの母と再婚しました。
ということは出て行った時にはすでにルイーゼの母と出会っていたのかもしれません。
ヨハンの母はそれ以来ずっとノイローゼで入院しています。
そんな母が可哀想でヨハンはクラインを憎んでいました。
何もかも父が悪いのだと。


でもある時、クラインの小説を読んでヨハンは心を打たれます。
恨んでいた父の作品を読む気になったのはヨハン自身が言うように心の半分で父を呼んでいたからでしょうし、父に似て純粋に文学が好きだったからでもあるでしょう。
ヨハンはルイーゼに言います。


「……あの人だって……
ぼくよりずっと たくさんの時間を生きて
たくさんの悲しみに会ったはずなのに

あの人は
……なんてあたたかい
……なんて澄んだ言葉で
語りかけるものを かくんだろう

……かなわない……
……とても大きな人だ」


「その人は かつて
ぼくの父だった人だろうけど
今はちがう
ぼくの夢……
…ぼくの敬愛する作家
モリッツ・クラインだ」


作品から受けた感動がクラインへの敬愛に変わり、今ではヨハンの夢になっている。
彼の夢とは何でしょう?


馬車に乗せてくれた人にヨハンは言っています。
「先生に一目でも会うことが――ずっとぼくの夢だったんです」と。
初めてクラインの小説を読んで感動した時、彼は自分が抱いている父のイメージとのギャップに困惑しただろうと思います。
家族を不幸にしたひどい父親と、人を感動させる温かい小説を書く作家、どちらが本当の姿なのだろうと。
そしてそれを自分の目で確かめたくなったのではないでしょうか。


もしクラインが作品から感じられる通り大きな心をもった人だったら、自分は何のわだかまりもなく敬愛できるようになる。
だから、そんな人であってほしい。
「クラインに会いたい」という夢は単に憧れの作家に会うというだけでなく、そういう願望を含んでいたのではないかなと思います。


ヨハンはルイーゼに「きみのお父さんて作家として ほんとうにすばらしい人だ」と言いましたが、この時はあくまで「作家として」素晴らしいとしか言えなかったのですよね。
けれど、もしクラインを心から尊敬できたら別の夢にも向かうことができる。
それは「いつか自分もこういう作品を書ける作家になりたい」という夢ではないでしょうか。


クラインの作品は母に対するヨハンの見方も変えたようです。
以前はただ可哀想だと思うばかりだったのが、今は「…母さんが不幸なのは だれも愛してないからだ 考えすぎるんだよ」と客観視できるようになっている。
父が出て行ったのは母にも原因があると考えるようになったのかもしれません。


-・-・-・-・-・-


ヨハンの話を聞いてルイーゼは申し訳ない気持ちになり、クラインに会っていってほしいと頼みますが、ヨハンは待たずに帰ります。
間もなく帰ってきたクラインは事情を聞き、馬を駆って駅へと急ぐ。
このあたりは縦に見せるコマ割りで、とても緊迫感があります。


汽車のデッキにヨハンが立ち、汽車が動き始めた時、クラインが追いつきます。
「ヨハン!」と叫ぶクライン。
見つめ返すヨハン。
両手を大きく広げるクライン。
1ページ目と同じように横長のコマが続いてヨハンの顔とクラインの顔、そしてヨハンの記憶の中の風景が積み重なっていき、ヨハンのモノローグがかぶさる。
そのモノローグは冒頭と似ているけれど少しずつ違っていて、最後はこの言葉で終わります。


「父は大きな人で
ぼくたちは いつも
肩ぐるまを ねだった

高い背」


その時ヨハンの脳裏に忘れていた情景が浮かんでくる。
それは自分や弟と戯れる父と、それを見ている母のシルエット。


今、目の前で両手を広げている父は、その幸福な記憶と重なって「おいで。抱き上げて肩車してあげよう」と言っているように見えたことでしょう。
ヨハンは何も言えなかったけれど、父はこんなに優しい目をしていたのだと思い出したのではないでしょうか。


父の姿が遠くに見えなくなってから心の中で「ありがとう」を繰り返し、涙が頬を伝う。
この「ありがとう」は、こんな気持ちだったのかもしれません。


一緒に暮らしていた頃、慈しんでくれてありがとう
出て行ったのは仕方なかったんだね
追ってきてくれてありがとう
受け入れてくれてありがとう
ルイーゼは他人の気持ちがわかる優しい子だね
きっとあなたがそんな人だからだ
だから、あなたの作品は温かいんだ
素晴らしい作品をありがとう
ぼくに夢をくれてありがとう…

 

f:id:mimosaflower:20190101155822j:plain

ラストページ。最後の余白が余韻となって沁みてきます


汽車を見送るクラインの後ろ姿も印象的で、私は父子がいつか再び交わる日が来るような気がします。
それはヨハンが作家になってからかもしれないし、もっと早くかもしれません。
そして2人とも、この日の出来事をモチーフに小説を書くのではないかと想像しています。


最後まで読んでもう一度扉絵を見返すと、寄り添う家族のシルエットがラストの戯れているシルエットの続きのように見えました。
「秋の旅」とはヨハンの心の旅でもあるのですね。
心に沁みる言葉と絵に加えて声や音やバラの香りや秋の光までも感じられて、まるで1篇の文学作品を読んだような、あるいは1本の映画を観たような、そんな読後感に包まれます。


ところでポーシリーズや「塔のある家」ではバラの花が重要なモチーフになっていますが、この作品でもクライン家の庭にバラが咲き乱れていて、もしかすると当時の萩尾先生にとってバラはヨーロッパへの憧れの象徴だったのかなと思ったりしました。


■■■■■■■■■■■■■■■■

 他にもあります 文芸作品

■■■■■■■■■■■■■■■■


「雪の子」もまた文学や映画の薫りのする作品です。
こちらは「秋の旅」より少し早く『別冊少女コミック』1971年3月号に掲載されました。

 

f:id:mimosaflower:20190101155825j:plain

(『萩尾望都作品集1 ビアンカ』1995年 小学館より。下も同)


ブロージーは本家の跡取り息子・エミールの遊び相手として屋敷に招かれます。
屋敷には同年代の親族の少年数人も呼び寄せられていました。


エミールは雪のように白い肌をした美しい少年でしたが、集まった少年たちを拒絶します。
他の子達は気難しいエミールを嫌いますが、心優しいブロージーはエミールの美しさに惹かれていきます。


そんなブロージーにエミールは秘密を打ち明けるのでした…


-・-・-・-・-・-


この作品の最大の魅力は中性的で独自の美学をもったエミールというキャラクターでしょう。
その言葉はブロージーを戸惑わせ、更に魅了していきます。


「ぼくが少年から おとなになるってことは 罪悪なんだ」
「ぼくは自分が一番美しい時に死ぬつもりだ」
「……ぼくは ぼく以上に だれも愛してない」
「…もうじき幕がおりるよ 観客はだまされたままでね おもしろいと思わない……?」

 

エミールが美学を貫くラストは衝撃的で、静かに雪の降り積もる白い世界が鮮やかに浮かび上がってきます。
ポーシリーズに通じる「大人になれない子ども」や、後のSF作品の両性具有者を思わせるキャラクターが描かれているところにも注目したいです。


-・-・-・-・-・-


「雪の子」の1ページ目も「秋の旅」と同じく横長のコマが積み重ねられています。
まず霧の中に少女の顔のアップがあり、それがだんだん遠のいて、入れ替わりに少年がだんだんアップになってくるというプロローグです。

 

f:id:mimosaflower:20190101155824j:plain

 

上の「秋の旅」の中で横長のコマの積み重ね効果について萩尾先生の言葉をご紹介しましたが、先生はこうもおっしゃっています。


「横長効果は同じキャラクターを二つ出すと、例えば手前からこちら側に迫ってくる感じ、逆だったら、こちらにいたのが遠ざかる感じ。距離感がすごく出しやすい。相手がいる場合には、それをちょっとよけると、今度は二人の立ち位置がわかりやすくなる。そのリズムがおもしろくてよく使っている。」

(「萩尾望都作品目録」様の2018年8月15日の記事「高崎での萩尾望都先生と浦沢直樹先生の対談レポート」より引用させて頂きました。レポートはこちらです ↓)

高崎での萩尾望都先生と浦沢直樹先生の対談レポート - ニュース:萩尾望都作品目録


このページの絵を見ると、まさにこういうことか!とよくわかりますね。


■■■■■■■■■■■■■■■■

記事内の作品はこちらで読めます

■■■■■■■■■■■■■■■■

 

「秋の旅」

 

11月のギムナジウム (小学館文庫)

11月のギムナジウム (小学館文庫)

 

 

萩尾望都-愛の宝石- (フラワーコミックス)

萩尾望都-愛の宝石- (フラワーコミックス)

 

 

「雪の子」

 

アメリカン・パイ (秋田文庫)

アメリカン・パイ (秋田文庫)