2022年が始まりました。
今年も萩尾先生がお元気に作品を描いてくださいますように。
そしてこのブログを訪問してくださった皆様にとりましても、昨年より良い年になりますよう願っております。
さて、何となく気付いていた方もいらっしゃるかもしれませんが、これまでこのブログでSF作品を取り上げたことはありませんでした。
それには理由がありまして、恥ずかしながら私、SFの知識が皆無なんです。
もちろん萩尾先生のSF漫画は大好きなんですよ。
「11人いる!」は最高だし「スター・レッド」やブラッドベリのシリーズも面白く読みました。
ただ、そこから先に進まなかったんです。
萩尾漫画を入口にSF好きになり、小説も読み始めて世界を広げた方は大勢いらっしゃいます。
私の場合、一応『タンポポのお酒』を読もうとしたものの早々に挫折(汗)
思えば小学生の頃から理科が苦手でした。
実験は意味が分かっていなかったし、物理や地学とは一生付き合いたくないと思っていました(理系の方、どうもすみません)。
ついでに数学も苦手。
つまり理数系のセンスゼロ人間なんですよ。
だから下手にSF作品について書いたりしたら「おまえは何も分かっとらん!」的な叱責の矢が方々から飛んで来るんじゃないかと怯えてまして。←こんな僻地のブログのくせに
でもでも、SFオンチにも萩尾漫画は面白いから紹介したい!
という訳で、さんざん言い訳を書き連ねましたが、今回は萩尾先生の初期SF作品「あそび玉」と「6月の声」をご紹介いたします。
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「あそび玉」
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「あそび玉」は『別冊少女コミック』1972年1月号に掲載された31ページの作品で、少女漫画初の本格SFと目されています。
(『萩尾望都作品集 第Ⅱ期9 半神』1995年 小学館より。下も同)
ストーリーは…
ティモシーの学校では「あそび玉ゲーム」が流行っていた。
あそび玉とはビー玉のようなガラス玉で、重心を少しずらして作られている。
9つの玉を輪の形に並べ、離れた場所から1つを指で弾いていくつ当てられるかを競い、すべての玉がぶつかり合うとストライクになる。
ある日、ティモシーは19回連続ストライクを取り、自分の意思であそび玉を動かせることに気付く。
だが母に話すと、母は真青な顔で、それはいけないことだから二度としてはならないと命じるのだった。
しかしティモシーはなぜダメなのか理解できず、クラスメイトの前であそび玉を自在に動かして見せる。
するとそれを見た教師が、超能力者がいると中央指令室に通報した。
ティモシーは下校途中、ある上級生から、かつて同じようにあそび玉を動かして見せた生徒の話を聞く。
その子は病院に送られ、1か月後に死んだという。
家には昼なのに珍しく父がいて、見知らぬ客が来ていた。
客は両親に何かを渡して帰っていった。
翌日、ティモシーは学校で倒れる。
意識が戻った時はベッドの上で、救急車を呼ぶ声が聞こえた。
危険を察知して逃走するティモシー。
いったんは超能力者に助けられるが、その後、彼を探しに来たサイボーグに出会い、驚くべき話を聞かされる。
そして――
・・・★・・・★・・・★・・・
萩尾先生のSF原画展の図録『萩尾望都 SFアートワークス』(2016年 河出書房新社)には、「あそび玉」の原画と共に次のような先生のコメントが掲載されています。
「この作品を描いた時、佐藤史生さんからヴァン・ヴォークトの「スラン」を読んだのかと聞かれたのですが、ジョン・ウィンダムの「ソンブレロ」という短編を読んだのです。
超能力者が迫害される、すごく怖い話でした。
超能力者が差別され迫害されるというテーマの話を描きたいと思っていました。」
ティモシーが生きているのは、コンピュータシステムによって統制された静かで平和な社会。
そこでは「超能力」という言葉自体がタブーであり、超能力者はコンピュータに組み込めない思考を持っているという理由で密かに処刑されるのです。
そしてここでは、80年前に人間と超能力者の間で最終戦争があり大勢の人が死んだ話もタブーとされています。
行き場を失くしてティモシーは考えます。
「――学校が
―――家が
――社会そのものが
ぼくをつかまえ つれていき
消してしまおうとしている…
…何と静かで平和な社会
…異端者は種子のうちに つみとられる
…だれも知らないうちに
善良で豊かなコンピュートピア
…それにしても
あそび玉ひとつで
社会のシステムは くずれるのだろうか」
完全な社会システムを維持するために、水も漏らさぬよう異端者を見つけて排斥する。
都合の悪い事実を隠蔽する。
でも人々は、それが良い目的のため、自分自身の安全のためだと思い、黙して従う。
もう50年前の作品ですが、当時よりもむしろ今の方が、この不気味さを身近に感じるような気がしてドキリとします。
ラストは希望を抱かせる終わり方で、ティモシーは地球(テラ)という遠い惑星の名を聞きます。
「地球…!
テラ?
どこかで きいた
だれの なまえだったか」
そうして私達は、ティモシーを助けてくれた女性がティラという名前だったことを思い出します。
超能力をひた隠し、正常人のふりをして暮らしているティラ。
超能力者ではなくても不当な差別によって息をひそめて生きている人は、自分が見えていないだけで周りにもいるのではないか。
そんなことを考えました。
ところで、この作品は長い間「幻の名作」と言われてきました。
なぜなら雑誌掲載後に原稿が紛失し、長く単行本化されなかったからです。
1980年に活版のゲラ刷りから起こして『少年/少女SFマンガ競作大全集PART5』(東京三世社)に収録されたものの汚れがひどく、それを苦労してホワイトで修正して1985年にようやく『萩尾望都作品集 第Ⅱ期』に収録されました。
『萩尾望都作品集』には、そのエピソードも掲載されています。
私はこの『萩尾望都作品集』を数年前に入手して初めて読むことができ、少しも古さを感じさせないことに感動しました。
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「6月の声」
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「6月の声」は「あそび玉」から5か月後の『別冊少女コミック』1972年6月号に掲載された31ページの作品です。
(『萩尾望都作品集14 続・11人いる!東の地平 西の永遠』1992年 小学館より。下も同)
ストーリーは…
ルセルは10歳の時に宇宙関係の仕事をしていた両親をロケットの接触事故で亡くし、おじに引き取られた。
年上のいとこエディリーヌは優しく美しく、ルセルは恋心を抱く。
4年後。ルセル14歳、エディリーヌ20歳。
突然エディリーヌが太陽系外惑星移民団に加わるという報が入る。
それは2万人がロケットの中で冬眠を続けながら、何十年何百年の時をかけて新しく開発する星を探す旅。
ルセルはエディリーヌの婚約者ロードも一緒に行くものだと思っていた。
ロードは移民団のロケットの第一設計士であり、ロケットに「エディリーヌ号」と名付けた人だから。
しかしロードは行かないという。
移民団のメンバーは5年前から決まっていたが、そのうちの4人が事故で亡くなったため、急遽追加メンバーが選ばれたのだった。
エディリーヌはロードと愛し合っていたはずなのに、なぜ1人で行ってしまうのだろう?
不思議がるルセルをエディリーヌはピクニックに誘った。
岬で風の歌を聴きながらエディリーヌは言う。
地球には季節季節に声があり、6月の今は世界中がジュテームと語りかけているのだと。
自分は地球が一番美しい6月に行くのだから、宇宙のどこへ行ってもジュテームという声を聞くのだと。
ルセルはロードを訪ね、移民団に加わってもらおうとする。
けれどそこでエディリーヌが旅立つ理由を聞かされるのだった――
・・・★・・・★・・・★・・・
この作品は1コマ目からインパクトのあるセリフで始まります。
「エディリーヌが外庭の芝刈り機を押すつもりだ!
どういうわけだ」
これは萩尾先生の造語で、中庭が太陽系、外庭は太陽系外。
「外庭の芝刈り機を押す」で「太陽系外への移民団の船に乗り込む」といった意味です。
これについて『萩尾望都 SFアートワークス』に先生のコメントが載っています。
「「外庭の芝刈り機」というのは、その頃の海外のSF小説に、何かを表す隠語というのがあって、それが面白いと思って。でももっとかっこいい名前にすればよかったかも?」
私がこの作品を読んだのは中学生の時で、完全なSF作品というよりは、SF要素のある少年の切ない恋物語と受け止めていました。
ちょうどルセルと同じ年頃だったので感情移入しやすかったし、彼が静かに涙を流しながら「行かないで…」「ぼくも行く」とエディリーヌにすがる場面が好きだったからです。
それにジュテームのくだりなど、全体に詩的な雰囲気を感じていました。
今改めて読むと、ルセルの恋が主軸ではあるけれど大人の恋愛もきっちり描かれていることに気付くし、かつては空想に過ぎなかった宇宙への移住が、もはや非現実的な夢物語ではなくなっていることに軽く驚いたりします。
エディリーヌは婚約者がありながら別の男性と短くも激しい恋をして、恋人の遺志を継ぎ宇宙への旅立ちを決断します。
それは一途で純粋な20歳の若者ならではの選択とも言えるでしょう。
でも、その決意には過去に囚われているだけではなく、未来への希望が込められています。
「きっとわたしは
宇宙船の中で結婚するわ
そうして遠い遠い未来に……
あなたたちの地球の子孫が
どこかの星にしるした
わたしたちの足跡を見つけるわ
そしてメッセージをうけとるのよ――」
両親をロケット事故で亡くしたルセルにとって、宇宙は死と隣り合せの暗黒の世界。
そんな彼方へと初恋の人が旅立ってしまう。
もう二度と会えない――。
「6月の声はジュテームじゃない
さよなら…だ
永遠(とわ)のさよなら」
ラストシーンは涙を流すルセルのアップにオーバーラップして、ロケットの発射を見送ろうと歓声を上げて走る、光の中の少年少女達。
その中には上空を見据えたようなルセルの姿も。
美しい地球を離れて、人はなぜ暗く寂しい宇宙へ向かうのか?
物語の中で幾度も繰り返されるルセルの問いに答えは出ないけれど、明日への希望がにじむラストです。
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記事内の作品はこちらで読めます
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●「あそび玉」
●「6月の声」
●『萩尾望都 SFアートワークス』
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