亜樹の萩尾望都作品感想ブログ

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(94)『萩尾望都がいる』

こんにちは。
最近どうも不定期になっております。


「青のパンドラ」が休載している間に、こちらの本を読みました。

 

萩尾望都がいる (光文社新書)

 

今年7月に刊行された長山靖生氏による評論『萩尾望都がいる』(光文社新書)です。


勉強不足で存じ上げなかったのですが裏表紙の紹介文によれば、長山氏は歯科医の傍ら、主に明治から戦前までの文芸作品や科学者などの著作を新たな視点で読み返す論評を行っているとのこと。
著作リストを見てみると、テーマが精神世界や社会的事象からSF・アニメまで多岐に渡っていて驚きました。


この『萩尾望都がいる』では、萩尾作品についての多くの評論や言葉を引きながら独自の分析と論考を重ねておられます。
でも語り口はソフトで、萩尾漫画への愛とリスペクトに溢れています。


それでは個人的に印象に残った部分を引用させて頂きながら、ごく簡単に内容をご紹介したいと思います。


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第Ⅰ章
双子と自由とユーモアと
――踊るように軽やかな表現の奥に
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「ルルとミミ」「ケネスおじさんとふたご」「セーラ・ヒルの聖夜」「11月のギムナジウム」といった双子が登場する作品をはじめ、初期作品について論じる章。
萩尾先生の幼少期からデビューまでのエピソードも紹介されています。


特に印象的だったのは

 

実際この頃(「秋の旅」の頃)から、萩尾作品が持つ「特別」感を言い表すために、ファンや評論家は“日本人離れした感性”とか“文学的”あるいは“文学性”という形容を用いるようになります。
(中略)
素晴らしい漫画作品と言いたいのだけれども、その素晴らしさを的確に表す独自の言葉をまだ漫画評論は持っていない。
なので“文学”とか“○○映画”(ヴィスコンティとかフェリーニとか小津とか)を借りてきてしまうのです。(p. 31/このことは第Ⅲ章で、もう少し詳しく書かれています)


→私もこのブログで「文学的」という言葉を使っています。
作品の香りを表現するのに他に適切な言葉を思いつかないんですよ。


今読み返してみると「雪の子」や「秋の旅」、そして「11月のギムナジウム」も、単に美しい優等生的な作品ではなく、親子の葛藤を秘めた物語であることに気付かされます。
(中略)
自己の人間としての尊厳と自立の必要性にいち早く気付いた魂の、それぞれの早熟な戦いが、これらの作品群の秘められた主題でした。(p. 32)


萩尾作品ではほぼ常に、愛の物語は同時に、自立と孤独の物語でもあります。(p. 34)


1人の人間が純粋に自己と向き合うための空間的条件として想像/創造されたのが、萩尾望都ギムナジウムでした。
それは現実のギムナジウムとも違う(中略)純粋空間でした。(p. 36-37)


萩尾作品には、初期から明解なリズムがありました。
作品にとってリズムとは、筋運びの基調をなすもの、もっとはっきりいえば、読者の視線に法則をもたらすものにほかなりません。(p. 45)


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第Ⅱ章
美しい宇宙、孤独な世界
――萩尾SFが求める多様性社会
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後の章でもSF作品に多くのページが割かれていますが、この章では萩尾先生のデビュー前やデビュー直後のSF作品について論じられています。


個人的に「あそび玉」に関する論考が面白かったです。


「あそび玉」に投影された彼女の孤独は、マイノリティとは必ずしも出自に限ったものではないことを示しています。
萩尾の表現は、個人の孤独が弱者や疎外されているもの全体の課題とつながっていくその現場を描き出しました。(p. 64)


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第Ⅲ章
少年と永遠
――時よ止まれ、お前は美しい
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ポーの一族」と「トーマの心臓」の章。
多くの作家や評論家の言葉や文章を引用して、この2作品が当時いかに革新的だったかを伝えています。


しかし少女漫画、なかでも特に萩尾作品は、漫画のページの中で、コマ割りというフレームを積極的に解体しました。
(中略)
それまではおおむね少年漫画的なコマ割りに従っていたものが、萩尾漫画ではコマをはみ出すことが多くなり、さらには枠線が溶解し、絵のサイズも自在なリズムで読者の視線を誘導する巧みな流れを生みました。
(中略)
こうした「絵」や「コマ割り・配置」は、従来の漫画表現を解体し、再構築するものでした。
表情や光景に感情や筋やセリフの一部すらも溶かし込んでいく革新的表現を確立したことで、萩尾漫画では同時に多様なことを語る、重層的に語ることが可能になりました。(p. 90-91)

 

読み終わった先から読み返したくなる。
なぜだろうと思ったのですが、それは絵に込められた情報が圧倒的に多いからだと、ある時期に気付きました。
萩尾漫画には無駄がないのです。
すべての絵、すべての言葉が、テーマに沿っていて、意味を持ち、ドラマは論理的に構成されている。(p. 111)


→これには全力で同意したいです。
1つひとつのコマの絵にも文字にも情報が詰まっているんですよね。
その情報を取りこぼさずにキャッチしたくて何度も読んでしまうんです。

 

(萩尾先生が描いた)このような「14歳」の特殊性は、萩尾作品に影響された多くのクリエイターに踏襲されることになりました。
(中略)
SF作家の夢枕獏も14歳という年齢の特殊性を意識していましたが、後にそれはほかでもない「萩尾さんの発見というより発明であり、その刷り込みを受けていたのだと気づいた」と述べています。(p. 94)


→獏さん、「100分 de 名著」でそうおっしゃっていましたね。
別のところで萩尾先生は「13歳だと少し子どもっぽく、15歳だともう大人になることを考えなくてはならない。14歳がちょうどいい」とおっしゃっていました。
14歳は子どもと大人の「あわい」とでも言うのでしょうか、それが私にはストンと胸に落ちるんですよ。
自分が14歳の頃を思い出しても、最も混沌とした時期でしたから。

 

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第Ⅳ章
大泉生活の顚末と心身の痛み
――少女漫画史再考①

第Ⅴ章
「花の二四年組」に仮託されたもの/隠されたもの
――少女漫画史再考②
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いわゆる「大泉サロン」と「24年組」について、文献にあたり出来事を整理しながらご自身の見解を述べておられます。
これらのワードに関心のある方は興味をそそられると思いますし、70年代に活躍されていた少女漫画家の先生方のお名前が多数登場するので当時読者だった方は楽しいでしょう。
サブタイトルにもあるように少女漫画史としても読むことができます。


個人的には第Ⅴ章の最後の文に強く頷きました。


萩尾や山岸の絵は、彼女らが表現しようとする作品世界の深度に沿う形で、必然的に変わっていきます。
ポーの一族』や『アラベスク』の世界は、目が大きくて陰りのない純粋にかわいらしい絵では表現できない、より切実な内面を持っていました。
初期には児童漫画的だったものが、繊細な線による絵画的表現に変化し、人物像はアニメ的な漫画絵ではなく、劇画的な線描も伴う陰影ある表現へと移行していきました。
漫画では文字だけでなく、その絵自体が作中人物の人格や感情や思惟を表現するのであり、内面を持つ人間の表現には必然的に影が伴うのです。(p. 177)


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第Ⅵ章
SF少女漫画の夜明け
――先人たちの挑戦と萩尾望都の躍進

第Ⅶ章
次元と異界の詩学
――漫画で拓いたSFの最先端
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この2章ではSF少女漫画史の概観を示した上で「11人いる!」以降の作品を論じており、著者がSF評論家だけに熱がこもっています。


「11人いる!」の中の、次の文が印象に残りました。


また当時は気付かなかったのですが、『11人いる!』は対等な関係性を探る物語でもありました。
それは萩尾望都の特徴であり、やがて佐藤史生や水樹和佳にも引き継がれる新たな男女関係・人間関係の模索表現でした。(p. 192-194)


スター・レッド」では


レッド・セイの魅力はその自由/自立にあります。
萩尾作品において、まず少年に仮託して描かれた“自由”な主体は、フロルという雌雄未分化の存在を経て、遂にセイという女性キャラクターに至ったのでした。
しかし彼女はそれゆえに孤独で、過酷な運命に晒されます。
自分らしく生きようとする者は、男女の別なく、孤独な存在とならざるを得ないのです。(p. 221)


正しさと誤りのモザイクである人間の多様な在り方、その矛盾と対立を留保して、宥和点を探し続けるのが萩尾SFの魅力です。(p. 225)


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第Ⅷ章
親と子、その断絶と愛執
――母娘問題の先取り
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親子関係を軸にした作品群について。
取り上げられている作品は「訪問者」「メッシュ」「半神」「カタルシス」「イグアナの娘」「小夜の縫うゆかた」「残酷な神が支配する」など。


私は「メッシュ」は途中までしか読んでいないし「残酷な神が支配する」は全くの未読なのですが、とても興味を引かれる章でした。


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第Ⅸ章
ふたたび、すべてを
――私たちが世界と向き合うための指針として
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21世紀に入ってからの「ここではない★どこか」シリーズ、「なのはな」をはじめとした原発事故関連の諸作品、「王妃マルゴ」「AWAY―アウェイ―」「ポーの一族」新シリーズについて。


どの作品も今日的な課題を内包していることに改めて気付かされました。


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この本には、さまざまな方の萩尾作品に対する論評が散りばめられており、「あとがき」に次のように記されています。


「本書には1970年代、80年代のものを中心に、萩尾作品に魅了された作家や評論家の言葉をたくさん引用していますが、それは当時のリアルタイムでの感動を伝えたいのと同時に、このようにして萩尾作品に魅了された人々が漫画評論を形成した「評論史」を記録しておきたい――というのも、本書のもうひとつの意図です。
漫画表現はどこまでも自由であり、評論もまた自由であり得るはずです。」(p. 315)


自分の話になりますが私は著者の長山氏と同年代で、中学時代を萩尾漫画にどっぷり浸って過ごしました。


けれど地方に住んでいたこともあってか、残念ながら周りに萩尾ファンは1人もいませんでした(唯一、私に萩尾漫画を教えてくれた友人がいましたが、私が引っ越したのであまり会えませんでした)。
なにしろ当時の少女漫画といえば「ベルサイユのばら」「はいからさんが通る」「エースをねらえ!」などが圧倒的な人気で、萩尾ファンは極めてマイナーだったのです。


高校生の時、まんが専門誌『ぱふ』が萩尾先生を特集しているのを見つけ、感激して隅々まで熟読しました。
それは、ほぼ1冊が小さい字と絵でびっしり埋まった文字通りの総特集で、橋本治さんら数人の方の評論が載っていました。
驚いたことに、評論の執筆陣も編集に携わった方々も大半が男性のようでした。


そう。その時、私は初めて知ったのです。
世の中には萩尾漫画に熱中、というより熱狂して真剣に論じ合っている大人が、しかも男性が大勢いることを。
そして同時に漫画評論というものにも初めて出合ったわけですが、その時は「頭のいい人が書く難しいもの」だと思ったので、それ以上読むことはありませんでした。


本書は「初の丸ごと1冊萩尾漫画の評論」という点で意義深いですが、当時の熱気に溢れた評論に触れることができたのも貴重でした。


この記事の中で引用したのは、あくまで私の印象に残った部分に過ぎません。
共感したり、なるほどと思ったりするポイントは読む人それぞれでしょう。
ですが「あとがき」のこの一文には誰もが頷くのではないでしょうか。


「SFであれ少年物であれ、現代物であれ、歴史物であれ、萩尾先生の作品の基調には、人が自由に生きることへの敬意があり、他者と対等に向き合い、完全に理解はできなくとも信頼や許容によってつながりを拓く、そんな世界への希望と意思があります。」(p. 316-317)